2010年12月16日

大阪 適塾の大名竹の竹は酒樽(さかだる)には適していない

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商人の町、町人の町大阪は。幕末と変わらない自由闊達な雰囲気が残っています。
御堂筋のすぐ東側の船場北浜。高層ビルに囲まれて町家が一軒残っています。
隣に不思議な趣きのある木造の愛珠(あいしゅ)幼稚園も残っており、この二軒が奇跡的に戦災を免れたそうです。
この幼稚園は木造では日本最古の由。後日、別に紹介します。

緒方洪庵が弘化2年(1845年)現在の場所にある商家を購入した建物です。
彼は号を適々斎と称し、その塾を「適々斎塾」または「適塾」と呼ぶようになりました。
この私塾は、「己の心に適(かな)う所を楽しむ」を意味し、
「意の適(かな)ふ所は諧謔して日を竟ひ、適はざる所は望々然としてこれを去る。履行多くは縄墨に中(あた)らず」と言った柏木如亭を思い起こします。


洪庵は文化7年(1810年) 岡山に生まれ、
長崎で蘭学の修行の後、天保九年(1838年)、二十九歳の時に開塾。
文久3年(1863年)五十三歳の死去まで二十四年間に渡り、適塾は続きます。
因に急死の原因は、友人の広瀬旭荘の意見によれば、江戸城西の丸火災の時、
和宮の避難に同行して長時間炎天下に居たからだとも。
伊藤博文ら塾生たちは、ここで厳しく学び、多いに酒を呑んだといいます。
日本で最も栄えた蘭学塾とはいうものの、当時では質素な建物で、
中庭を隔てて洪庵が使った書斎があり、その人柄を思わせる端正な佇まいです。
吉田松陰の松下村塾を思想教育の塾だとすれば、適塾は医学、語学教育の塾でありました。

一般公開されていますが、残念ながら現在は改修中で来春まで中に入る事は出来ません。

医学校を経て今の大阪大学の源となった塾なのです。

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